2010年3月18日木曜日

現代宇宙論と仏教宇宙論

少し前だけど、ザ・ビッグイシュー 133号に、宇宙物理学者 佐藤勝彦さんのインタビュー記事が載っていた。

(佐藤勝彦さんの著書「眠れなくなる宇宙のはなし


ザ・ビッグイシューのは、「遠くを見れば見るほど、宇宙の過去と未来が見えてくる。」と題されたインタビュー記事だが、

「この宇宙は137億年前、原子よりもはるかに小さい超ミクロの卵の状態で生まれ、すぐに急膨張して目に見えるぐらいの火の玉となり、ゆるやかな膨張とともに温度が下がって、2億年後に最初の星が生まれたとされています。」

「わたしたちが住んでいる天の川銀河はやがて隣のアンドロメダ銀河と合体します。その頃には太陽は燃えつき、ぼやーと膨らんできて、ほとんど地球軌道の近くまできますから、海が消え、地球は焼き尽くされて太陽の中に落下していきます。」

「宇宙は永遠ではありません。やがては何も見えない暗黒の世界になり、真ん中に星が落ちてきて巨大なブラックホールができ、端にある星が飛び散って、宇宙は静かな死を迎えます。」

「やがては収縮に転じてビッグバンの逆向きの現象が起こり、宇宙は火の玉となり、最後には1点となって宇宙の一生を終えるでしょうね。」

と、いう具合。
現代宇宙論ではそこまでわかっているのか、と正直驚いた。ビッグバンで生まれた宇宙はビッグバンの逆現象で収縮して一点に帰り、その生涯を終える。なんと雄大な・・・。


でも、これってどっかで読んだ覚えがあるのを思い出した。パーリ語の長部経典の最初にある「梵網経」。

原始仏典〈第1巻〉長部経典1


菩薩戒を授ける作法が載っている経典ということで、有名な経典らしい。
この経典は前半と後半に分かれていて、前半は戒の話が載っている。後半は釈尊が当時のインドで行われていた62の哲学的見解をカテゴリー分けして、それぞれに批判を加える内容になっている。

そこに出てくるのだけれども、当時の哲学者ないし修行者たちは瞑想によって人間の認識能力を拡張し、自分の前世を何劫(「劫」は時間単位で、1劫は宇宙がひとつ発生してから消滅するまでをいう。古代インドらしい、気の長ーい単位)にもわかって見ることができたらしい。能力のすぐれた人は確か40劫まで遡れたという。

古代インドの世界観でも、最初は物質は存在しない。すべての生物は肉体を持たない精神的な存在として「アーバッスラ(光音天)」というところに存在する。
やがて、物理的空間としての宇宙が発生し、そこへアーバッスラから精神的存在である生物が降りてきて肉体を持つ。
最初は微細な肉体を持つ天界の住人だけだったのが、徐々に宇宙がひろがり、いろんな天界や人間界なんかもできて、堕落した天界の存在が徐々に人間界なんかにおりていって、現在のような世界が形成された、ということになっている。
このときに最初に降りてきた、一番能力の高い寿命の長い存在が「梵天」=唯一神扱いされる。
一劫が終わるときは、物理空間がどんどん壊れていき、宇宙は収縮してもとの物質の存在しない状態へと戻る。生物はまた「アーバッスラ(光音天)」に帰って、気のとおくなるような年月をすごす。このように物質宇宙が点から生まれて膨張し収縮して消滅する、というのを無限に繰り返すことになっている。

なんか、現代宇宙論とそっくりだなあ、と思った。

ただ、現代宇宙論では、無からの生成(科学なので「無からの創造(クレアチオ・エクス・ニヒロ)」という語は適切ではないと思う。)のあと膨張・収縮して、消滅で終わりになっている。

でも、気になるのが「先生に質問!宇宙が超ミクロの状態から生まれる前はどうだったのですか?また、消滅して無に帰ったあとはどうなるのですか?」という疑問。

ご承知のとおり(勝手にご承知させて申し訳ありませんが)、世界が「始まった」と仮定すると、論理的にやっかいな問題を引き起こしてしまう。「始まり」と「終わり」があるからには当然「始まりの前」と「終わりの後」がなければならないのだが、宇宙が始まる前には無があった、はいいとして、その「無なる状態」はどうやって存在した(変な言い方だが)のか?ということが根本的な疑問となる。論理的に解決不能の問題を抱え込むことになってしまう。

その解決方法は実は簡単で、それは「宇宙を始めない」こと。
宇宙が始まる前の無は「その前の宇宙が収縮して消滅した結果、無になった」ということにしておくとすじがとおる。宇宙は発生と消滅を永遠に繰り返し「始まりもしなければ終りもしない。」ということにしておけば、万事解決する。

しかし、現代宇宙論と2500年前のインドの宇宙論がこうも似ているとはビックリ。古代インドの行者たちはやっぱり超能力で劫単位の前世を見ることができたのだろうか・・・。

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