2013年9月28日土曜日

小国寡民

小国寡民

「空(す)いてゆく日本」に必要なのは、小国寡民の発想。

其の食を甘(うま)しとし、
其の服を美とし、
其の居(きょ)に安んじ、
其の俗(ぞく)を楽しむ。

今あるものですませる、という考え方。

年間数十万人単位で人口が減ってゆく日本に経済成長はもはや期待できない。
あるものをいかに分け合って暮らしていくか?という発想への切り替えが必要。
グローバル化時代の新しい小国寡民を模索する。

基本ポリシー
・収入を増やすことを目指すのではなく、少ない収入でもいきていけるように環境を整えることを考える。

日本で高いのは家賃。家賃を下げるための1万円住宅。
低所得者用に月額一万年で住める公営住宅を都市部に大量に供給する。
 ー 家賃の相場が下がる。原資は地方の道路や橋に投入されていた公共事業費を使用。

光熱費値下げ。
 原発の中で安全性の高いものはさっさと再稼動。その代わりに電気代を値下げする。

都市部への人口集中
限界集落から都市部への移住を促進。集まって住むことで道路や電気、ガス、水道などのインフラのメンテナンスすべき範囲を縮小する。ー コスト削減。

規制緩和、TPP参入
安い外国産食料品、衣料品などを輸入促進。ー 生活コストの低減。

2010年12月8日水曜日

Happiness is here and now

Happiness is here and now
I have dropped my worries
Nowhere to go
Nothing to do
No longer in a hurry

Happiness is here and now
I have dropped my worries
Somewhere to go
Something to do
But not in a hurry

http://www.youtube.com/watch?v=Q5kteKBfQ0I

2010年8月2日月曜日

ヨガと気づき

「気づきとヨガの素敵な関係」という特集を組んでいるヨガ雑誌を見つけて、思わず購入。(笑)

Yogini(ヨギーニ)  Vol. 24 えい出版社

特集記事中の、ヨーガと気づきの関係について書いた文章より。

「ヨーガと気づきにはとても大きな関係があります。例えば『ヨーガ・スートラ』。

これはインドの文献では、グルシャナ(=認知)、あるいは大別すれば『バガヴァツド・ギ一夕ー』と同じスムルティ文献に入ります。
スムルティとは記憶、気づき、知ったこと、という意味。ちなみにヴューダの哲学書や『ウパニシャッド』は人が創作したものではなくシュルティ=聞いたもの。つまり『ヨーガ・スートラ』は〝気づきの書〟なのです。八支則は、気づきの体験により書かれた、大いなる気づきへと導く地図ではないでしょうか。

『ヨーガ・スートラ』に書かれているヨーガの最高の気づきは、「私は、いつも変化する肉体や心(思いや自我)など(総合してプラクリティ)と、不変の意識(プルシャ=純粋精神)から成る。そして、私はプルシャであり、プラクリティと異なる」ということ。
ヨーガはそもそも結びつけるという意味ですが、ヨーガを深めていくと、プルシャとプラクリティとは紆びついていないということを知るわけです。

人間は肉体、五感、思考、感情、自我の五つの層から構成されていますが、ヨーガによってそれぞれの層、段階で、これは「自分」ではないと気づいていくと、最終的に識別力(ヴィヴエーカ)により、自分は〝不変の意識(プルシャ)″だと気づきます。
それが解脱(カイヴアルヤ) です。解脱とは悟った状態で、ヨーガのゴールとされます。」

なんか、どっかで聞いたような話。(笑)

「人間は肉体、五感、思考、感情、自我の五つの層から構成され」 --> これは五蘊。

「ヨーガによってそれぞれの層、段階で、これは「自分」ではない気づいていく」 --> 五蘊非我。

「識別力(ヴィヴエーカ)により、自分は〝不変の意識(プルシャ)″だと気づきます。」 --> 智慧の力で自分は〝不変の意識(プルシャ)″に気づくわけですね。ここは無我ではない。

なんだかんだいって、ヨーガも仏教もおんなじインド思想の中のお仲間ということがわかります。

2010年7月31日土曜日

ティク・ナット・ハンの抱擁

1月第一週 人生との約束に背かないでください。

過去はすでに過ぎ去り、
未来はまだ来ていません。
今この瞬間だけが私たちに存在し、
私たちは今、この瞬間だけを味わうことができるのです。
過去の悔いは手放し、
明日のことも心配しないでください。
今、この瞬間に出会うために、本当の自分自身に帰りましょう。

・・・・瞬間、瞬間の呼吸、
私たちが歩む一歩一歩、
私たちのあらゆる微笑みが、
私たちに人生というものを深く体験させてくれます。


1月第二週 今のあなたは、そのままで素晴らしいのです。他の人になろうとしないでください。

あなたが探しているものは、すでにあなたの中にあります。
あなたの周りにあるのではありません。
あなたは今、あなたの願っているとおりの姿です。
今のあなたは、そのままで素晴らしいのです。
あなたが願う姿になるために、
未来を待つ必要はありません。
あなたが探しているものは、すでに「この瞬間」にあるのです。
神の国も「今、この瞬間」にあります。
あなたの悟りも、まさにここにあるのです。

・・・・自由に至る本当の道は、
何も求めず、
今、この瞬間にただ存在することてす。


1月第三週 私たちの時間は、ただ在ることのためにあります。

私たちは、存ることより
行動することが重要だと考える傾向があります。
私たちは、何かをしていないと
時間の無駄使いをしていると思ってしまいます。
それは間違った考えです。
何よりも私たちの時間は、ただ在ることのためにあります。
何のために私たちの時間は存在するのでしょうか。
生きるため、平和のため、喜びのため、愛のため。
これらは、私たちの世界が最も、そして切実に必要としているものなのです。

・・・・存在する質が、行動の質を決めるのてす。


「ティク・ナット・ハンの抱擁」 現文メディア 2008年 P.20-31より。


2010年7月14日水曜日

「思っている我」がある、と思っているのは誰やねん?

だいぶまえに書いたものをものの再UP記事。


「我思う、ゆえに我あり」
かの有名なデカルト師匠がおっしゃった、近代哲学の大前提。思うがゆえにある「我」。これをみとめずんば、その先には思考を進めることができない、磐石の地盤にして近代哲学の基礎。

と、いうことになっているのだが、あたしは若年のころより、このご託宣にいまいち納得がいっていなかった。
だって、そもそも「思う我」をいったい誰が「ある」と認めているんだろう?認識主体と認識対象は別のものでないと、そもそも認識するということ自体成り立たないはずだ。
「思う我」とそれを「ある」と認めるだれかとは、別々でないとおかしいではないか?

と、いうような疑問をかかえつつ、解決できないまま数十年が過ぎ去ってしまった・・・。

ところが、つい最近になって、その疑問はとっくの昔(約2700年前!)に解かれていたことがわかってしまった・・・。

ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2003-05

上記の書によれば、紀元前8~7世紀という遠い昔、インドの哲学者 ヤージュニャヴァルキャ様という方が、「認識主体は認識されない」という根本的な解をだしてしまっていたのだ!
詳しくは上記書を読んでいただくといいのだけれども、要点は、もしかりに認識主体なるものが認識されたとしても、その認識主体なるものは、認識されたその瞬間にもはや認識主体ではなく、認識対象となってしまっているため、その対象を認識している認識主体をまた想定せざるを得なくなり、無限後退に陥ってしまう。自己は認識主体であるがゆえに、決して認識されないものだ、という。
これを読んだときには、おもわず、びっくらこいてしょんべんちびりそうになって、五体投地しそうなくらい感動してしまた。
自己があるとすればそれは世界の外にあるほかはなく、自己は決して認識できない。
仏陀が説いたのもヤージュニャヴァルキャ以来のインド哲学の伝統の上に立つ「非我説」で、「XXは自己ではない、XXは自己ではない」としか語らなかった。それは自己が「語れないもの」だったから。後世の仏教関係者は勘違いをして、自己なんて無いんだという極論の「無我説」にまで曲解してしまったから話がややこしくなってしまったそうな。(自己が無いとなると、仏教の根本理念にかかわる、輪廻転生の主体がなくなってしまい、自業自得が成り立たなくなる。)

著者のWEBページがあったので、そこも読んでみると面白い。
(以下、同WEBページの「インドにおける自己論の構造」から引用。)

「それによって一切を知ることになるもの、それを何によって知ることができるのであろうか。
かのものは、『に非ず、に非ず』としかいいようのない自己であり、不可捉である。なぜなら、把捉されないからである。」

「この文章のうち、自己認識の可能性に触れた個所は、「それによって一切を知ることに なるもの、それを何によって知ることができるであろうか」「かのものは、『に非ず、に非ず』としかいいようのない自己であり、不可捉である」「ああ、知る 者を、何によって知ることができるであろうか」という文である。ここからすぐにわかるように、ヤージュニャヴァルキヤは、自己は認識不可能であると主張し ている。この主張は、真理は知りえず、語りえない、という神秘主義的態度を素朴に主張しているわけではない。そうではなく、ヤージュニャヴァルキヤは、こ こで、認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己は知りえないといっているのである。」

2010年7月12日月曜日

劣化ウラン弾についてのメモ

劣化ウランは「核のくず」とか言われて、「放射線レベルが低いので自然被爆程度の害しかない。」とかいう意見をネット上でみかけます。同じように砲弾に使われるタングステンと同程度の重金属毒性しかない、とか。

ただ、湾岸戦争後にイラクで癌や奇形児が増えているのは事実。
http://web.mac.com/takana_gohan/iWeb/AfterIraqWar/Introduction.html

なにが正しいんだろうか?と疑問に思い調べてみましたが、やっぱり劣化ウラン弾には化学的毒性と放射線による被害(内部被ばく)の両方があるようです。

化学的毒性
「被害の原因は、ばっさりと言えばウランという元素が(化学的)毒物だからです。その意味では、劣化ウラン弾被害は、枯れ葉剤・ダイオキシンの被害と異なるところはありません。放射能をもつ元素たちのなかで、「放射毒性」よりも「化学毒性」が上回るのは、唯一ウランだけであることは、すでに何十年も前から放射化学者、放射線影響学者にとっては、常識の一つなのです。」
http://www.nava21.ne.jp/~tokuda/chon/hayasi/other/d-uran.htm


内部被ばく
「内部被曝は、水や食べ物に放射性物質が含まれていて、それを飲んでしまう。空気中に含まれている浮遊している放射性物質を呼吸で取り入れてしまう。こういうふうにして体の中に入った放射性原子が体内で放射線を出す。これが内部被曝であります。」
「内部被曝では、アルファ線、ベータ線が非常に大きな被曝を与えます。核分裂生成原子の場合、ベータ線が圧倒的多数でガンマ線が付随している状況で、ベータ線、アルファ線には被曝の局所性と継続性があるわけですから外部被曝に比べて極端に大きな被害形態であることを強調したいと思います。」
http://www.geocities.jp/hokkaihankakuishi/yagasaki.html

「文部科学省の外郭団体である科学技術振興機構による「原子力百科事典」によると「劣化ウランの放射線障害は主として透過力の小さいα線によるものであり、外部被ばくはほとんど問題にならない」と書かれていますが、続いて「経口または吸入摂取した場合には内部被ばくを受ける」となっています。α線は透過力が小さいと言っていますが、体内に入ってしまえば透過力が大きくなくても影響を与えることが可能で、またα線はエネルギーが高いので突然変異を引き起こす可能性が高いことが懸念されています。」
http://homepage.mac.com/travellers/blog/C1038363525/E2015648311/index.html

「直径5μmの劣化ウランの微粒子が細胞に付着している場合を考えると、この微粒子は1年間に約500回のα線を放射します。アルファ線の到達距離からすると、アルファ線を受けるのは、微粒子の周辺の数十個の細胞であると考えられます。したがって、近傍の細胞はほぼ確実に遺伝子の変異を引き起こすようなα粒子による打撃を、1年間に数回から十数回程度、集中的に受けることになります。激しく遺伝子が破壊された細胞は死滅しますが、生き残った細胞は、前癌細胞へと変化する可能性を非常に高めることになります。」
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/UMRC/du_human_effect.htm

内部被ばくということを考えると、癌の多発や米兵の「湾岸戦争症候群」も説明がつきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/湾岸戦争症候群


まだまだ調査そのものが行われていないか、あるいは政治的に情報が公開されないせいか、データが少なくはっきりとした因果関係は言えないようですが、劣化ウラン弾はイラクで癌や奇形児が増えている有力な容疑者だと思われます。

2010年6月30日水曜日

ニューエイジ思想は平和にとって無力か?

あるところで次のような意見をいただきました。

「ニューエイジ連中にいつもイライラする。連中は精神的な平和のことばかり言って、実際に平和運動とかの行動をしない。運動に関心も持たない。」

(自分が「ニューエイジ連中」に属するかどうか?は判断に迷いますが、とりあえずそのお仲間として、以下の話を進めます。(笑))

確かに運動に対して関心を持たないとか行動しない面はあると思います。
でも、ニューエイジ連中(笑)の言い分をちょっと言っておきますね。

戦争が起こる根本原因は人間の心だとニューエイジ連中は思っています。(少なくとも私はそう思う。)で、「心の平和」っていうのは、怒りとか憎しみとか貪欲とかを取り除いて、個人の心を平和にすることを目指しています。それが結局のところ、戦争をする根本原因を取り除くことになるわけで、それをやらずに平和は永久に来ない、というのがニューエイジ連中の意見だと思います。

ハンちゃん(Thich Nhat Hanhの教えに「インタービーイング(共依存)」というのがありまして、これは生き物(あるいはもの)はお互いに依存しあって存在しているのだ、という考え方です。仏教の「縁起」ですね。要は、すべてのものは他のものとの関係性において成り立っており、それ自体で独立して存在するものなど何も無い、ということ。
あなたもわたしも共に依存しあって存在しているのであり、あなたがいなければわたしも無く、わたしがなければあなたもない。だから、お互いに助け合って生きていきましょう。といういかにもあま~い、教えです。(笑)


ええと、でもこれは通常の意識状態、つまりわたしたちの日常意識から見ると、あま~い見方に見えるんですが、ここに瞑想(メディテーション)が入ってくると、話は180度変わってしまいます。
自我があるとか、「私」が存在するとか、はたしてそういうことがどこまで事実なのか?瞑想のなかで体験するリアリティはそういう「考え」(自我とか「私」は実はひとつの考えです。)を壊してしまいます。
自分というものの存在が、いいかげんなものであり、いろんな観念や思い込みの上にやっとこさ成り立っているものだ、ということを分からせてくれるのが瞑想です。


だから、その地点から見れば、「インタービーイング(共依存)」こそが人間の生きているリアリティなのであって、他人とは独立して自我があるとか、「私」が単独で存在するとか、そういう考え方は、実は観念の上に観念を重ねて作り出された絵空事、ということになります。私とあなた、日本人とXX人、XX民族と〇〇民族がそれぞれ独立して存在し、相手がいなくても存在できる、という意識であれば、対立が生じた場合は相手を打ち負かすことで生き延びるのが正しい選択となるでしょう。が、しかし、そちらの考え方が絵空事であって、「インタービーイング(共依存)」が事実だとするならば、対応方法は「共存」を第一に考えるしかなくなります。


だから、戦争を本当になくしたいと思うのであれば、まず、心の問題を解決する以外に無い、というのが実はリアリティのあるアプローチであるわけです。ハンちゃんがリトリート(瞑想会)をあちこちで催して、参加者に「トランスフォーム(覚醒)」を促そうとするのもそういうことからだと思います。他のニューエイジな人たちも同じようなことを考えているのだろうと思います。