だいぶまえに書いたものをものの再UP記事。
「我思う、ゆえに我あり」
かの有名なデカルト師匠がおっしゃった、近代哲学の大前提。思うがゆえにある「我」。これをみとめずんば、その先には思考を進めることができない、磐石の地盤にして近代哲学の基礎。
と、いうことになっているのだが、あたしは若年のころより、このご託宣にいまいち納得がいっていなかった。
だって、そもそも「思う我」をいったい誰が「ある」と認めているんだろう?認識主体と認識対象は別のものでないと、そもそも認識するということ自体成り立たないはずだ。
「思う我」とそれを「ある」と認めるだれかとは、別々でないとおかしいではないか?
と、いうような疑問をかかえつつ、解決できないまま数十年が過ぎ去ってしまった・・・。
ところが、つい最近になって、その疑問はとっくの昔(約2700年前!)に解かれていたことがわかってしまった・・・。
ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2003-05
上記の書によれば、紀元前8~7世紀という遠い昔、インドの哲学者 ヤージュニャヴァルキャ様という方が、「認識主体は認識されない」という根本的な解をだしてしまっていたのだ!
詳しくは上記書を読んでいただくといいのだけれども、要点は、もしかりに認識主体なるものが認識されたとしても、その認識主体なるものは、認識されたその瞬間にもはや認識主体ではなく、認識対象となってしまっているため、その対象を認識している認識主体をまた想定せざるを得なくなり、無限後退に陥ってしまう。自己は認識主体であるがゆえに、決して認識されないものだ、という。
これを読んだときには、おもわず、びっくらこいてしょんべんちびりそうになって、五体投地しそうなくらい感動してしまた。
自己があるとすればそれは世界の外にあるほかはなく、自己は決して認識できない。
仏陀が説いたのもヤージュニャヴァルキャ以来のインド哲学の伝統の上に立つ「非我説」で、「XXは自己ではない、XXは自己ではない」としか語らなかった。それは自己が「語れないもの」だったから。後世の仏教関係者は勘違いをして、自己なんて無いんだという極論の「無我説」にまで曲解してしまったから話がややこしくなってしまったそうな。(自己が無いとなると、仏教の根本理念にかかわる、輪廻転生の主体がなくなってしまい、自業自得が成り立たなくなる。)
著者のWEBページがあったので、そこも読んでみると面白い。
(以下、同WEBページの「インドにおける自己論の構造」から引用。)
「それによって一切を知ることになるもの、それを何によって知ることができるのであろうか。
かのものは、『に非ず、に非ず』としかいいようのない自己であり、不可捉である。なぜなら、把捉されないからである。」
「この文章のうち、自己認識の可能性に触れた個所は、「それによって一切を知ることに なるもの、それを何によって知ることができるであろうか」「かのものは、『に非ず、に非ず』としかいいようのない自己であり、不可捉である」「ああ、知る 者を、何によって知ることができるであろうか」という文である。ここからすぐにわかるように、ヤージュニャヴァルキヤは、自己は認識不可能であると主張し ている。この主張は、真理は知りえず、語りえない、という神秘主義的態度を素朴に主張しているわけではない。そうではなく、ヤージュニャヴァルキヤは、こ こで、認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己は知りえないといっているのである。」
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