2010年7月31日土曜日

ティク・ナット・ハンの抱擁

1月第一週 人生との約束に背かないでください。

過去はすでに過ぎ去り、
未来はまだ来ていません。
今この瞬間だけが私たちに存在し、
私たちは今、この瞬間だけを味わうことができるのです。
過去の悔いは手放し、
明日のことも心配しないでください。
今、この瞬間に出会うために、本当の自分自身に帰りましょう。

・・・・瞬間、瞬間の呼吸、
私たちが歩む一歩一歩、
私たちのあらゆる微笑みが、
私たちに人生というものを深く体験させてくれます。


1月第二週 今のあなたは、そのままで素晴らしいのです。他の人になろうとしないでください。

あなたが探しているものは、すでにあなたの中にあります。
あなたの周りにあるのではありません。
あなたは今、あなたの願っているとおりの姿です。
今のあなたは、そのままで素晴らしいのです。
あなたが願う姿になるために、
未来を待つ必要はありません。
あなたが探しているものは、すでに「この瞬間」にあるのです。
神の国も「今、この瞬間」にあります。
あなたの悟りも、まさにここにあるのです。

・・・・自由に至る本当の道は、
何も求めず、
今、この瞬間にただ存在することてす。


1月第三週 私たちの時間は、ただ在ることのためにあります。

私たちは、存ることより
行動することが重要だと考える傾向があります。
私たちは、何かをしていないと
時間の無駄使いをしていると思ってしまいます。
それは間違った考えです。
何よりも私たちの時間は、ただ在ることのためにあります。
何のために私たちの時間は存在するのでしょうか。
生きるため、平和のため、喜びのため、愛のため。
これらは、私たちの世界が最も、そして切実に必要としているものなのです。

・・・・存在する質が、行動の質を決めるのてす。


「ティク・ナット・ハンの抱擁」 現文メディア 2008年 P.20-31より。


2010年7月14日水曜日

「思っている我」がある、と思っているのは誰やねん?

だいぶまえに書いたものをものの再UP記事。


「我思う、ゆえに我あり」
かの有名なデカルト師匠がおっしゃった、近代哲学の大前提。思うがゆえにある「我」。これをみとめずんば、その先には思考を進めることができない、磐石の地盤にして近代哲学の基礎。

と、いうことになっているのだが、あたしは若年のころより、このご託宣にいまいち納得がいっていなかった。
だって、そもそも「思う我」をいったい誰が「ある」と認めているんだろう?認識主体と認識対象は別のものでないと、そもそも認識するということ自体成り立たないはずだ。
「思う我」とそれを「ある」と認めるだれかとは、別々でないとおかしいではないか?

と、いうような疑問をかかえつつ、解決できないまま数十年が過ぎ去ってしまった・・・。

ところが、つい最近になって、その疑問はとっくの昔(約2700年前!)に解かれていたことがわかってしまった・・・。

ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2003-05

上記の書によれば、紀元前8~7世紀という遠い昔、インドの哲学者 ヤージュニャヴァルキャ様という方が、「認識主体は認識されない」という根本的な解をだしてしまっていたのだ!
詳しくは上記書を読んでいただくといいのだけれども、要点は、もしかりに認識主体なるものが認識されたとしても、その認識主体なるものは、認識されたその瞬間にもはや認識主体ではなく、認識対象となってしまっているため、その対象を認識している認識主体をまた想定せざるを得なくなり、無限後退に陥ってしまう。自己は認識主体であるがゆえに、決して認識されないものだ、という。
これを読んだときには、おもわず、びっくらこいてしょんべんちびりそうになって、五体投地しそうなくらい感動してしまた。
自己があるとすればそれは世界の外にあるほかはなく、自己は決して認識できない。
仏陀が説いたのもヤージュニャヴァルキャ以来のインド哲学の伝統の上に立つ「非我説」で、「XXは自己ではない、XXは自己ではない」としか語らなかった。それは自己が「語れないもの」だったから。後世の仏教関係者は勘違いをして、自己なんて無いんだという極論の「無我説」にまで曲解してしまったから話がややこしくなってしまったそうな。(自己が無いとなると、仏教の根本理念にかかわる、輪廻転生の主体がなくなってしまい、自業自得が成り立たなくなる。)

著者のWEBページがあったので、そこも読んでみると面白い。
(以下、同WEBページの「インドにおける自己論の構造」から引用。)

「それによって一切を知ることになるもの、それを何によって知ることができるのであろうか。
かのものは、『に非ず、に非ず』としかいいようのない自己であり、不可捉である。なぜなら、把捉されないからである。」

「この文章のうち、自己認識の可能性に触れた個所は、「それによって一切を知ることに なるもの、それを何によって知ることができるであろうか」「かのものは、『に非ず、に非ず』としかいいようのない自己であり、不可捉である」「ああ、知る 者を、何によって知ることができるであろうか」という文である。ここからすぐにわかるように、ヤージュニャヴァルキヤは、自己は認識不可能であると主張し ている。この主張は、真理は知りえず、語りえない、という神秘主義的態度を素朴に主張しているわけではない。そうではなく、ヤージュニャヴァルキヤは、こ こで、認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己は知りえないといっているのである。」

2010年7月12日月曜日

劣化ウラン弾についてのメモ

劣化ウランは「核のくず」とか言われて、「放射線レベルが低いので自然被爆程度の害しかない。」とかいう意見をネット上でみかけます。同じように砲弾に使われるタングステンと同程度の重金属毒性しかない、とか。

ただ、湾岸戦争後にイラクで癌や奇形児が増えているのは事実。
http://web.mac.com/takana_gohan/iWeb/AfterIraqWar/Introduction.html

なにが正しいんだろうか?と疑問に思い調べてみましたが、やっぱり劣化ウラン弾には化学的毒性と放射線による被害(内部被ばく)の両方があるようです。

化学的毒性
「被害の原因は、ばっさりと言えばウランという元素が(化学的)毒物だからです。その意味では、劣化ウラン弾被害は、枯れ葉剤・ダイオキシンの被害と異なるところはありません。放射能をもつ元素たちのなかで、「放射毒性」よりも「化学毒性」が上回るのは、唯一ウランだけであることは、すでに何十年も前から放射化学者、放射線影響学者にとっては、常識の一つなのです。」
http://www.nava21.ne.jp/~tokuda/chon/hayasi/other/d-uran.htm


内部被ばく
「内部被曝は、水や食べ物に放射性物質が含まれていて、それを飲んでしまう。空気中に含まれている浮遊している放射性物質を呼吸で取り入れてしまう。こういうふうにして体の中に入った放射性原子が体内で放射線を出す。これが内部被曝であります。」
「内部被曝では、アルファ線、ベータ線が非常に大きな被曝を与えます。核分裂生成原子の場合、ベータ線が圧倒的多数でガンマ線が付随している状況で、ベータ線、アルファ線には被曝の局所性と継続性があるわけですから外部被曝に比べて極端に大きな被害形態であることを強調したいと思います。」
http://www.geocities.jp/hokkaihankakuishi/yagasaki.html

「文部科学省の外郭団体である科学技術振興機構による「原子力百科事典」によると「劣化ウランの放射線障害は主として透過力の小さいα線によるものであり、外部被ばくはほとんど問題にならない」と書かれていますが、続いて「経口または吸入摂取した場合には内部被ばくを受ける」となっています。α線は透過力が小さいと言っていますが、体内に入ってしまえば透過力が大きくなくても影響を与えることが可能で、またα線はエネルギーが高いので突然変異を引き起こす可能性が高いことが懸念されています。」
http://homepage.mac.com/travellers/blog/C1038363525/E2015648311/index.html

「直径5μmの劣化ウランの微粒子が細胞に付着している場合を考えると、この微粒子は1年間に約500回のα線を放射します。アルファ線の到達距離からすると、アルファ線を受けるのは、微粒子の周辺の数十個の細胞であると考えられます。したがって、近傍の細胞はほぼ確実に遺伝子の変異を引き起こすようなα粒子による打撃を、1年間に数回から十数回程度、集中的に受けることになります。激しく遺伝子が破壊された細胞は死滅しますが、生き残った細胞は、前癌細胞へと変化する可能性を非常に高めることになります。」
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/UMRC/du_human_effect.htm

内部被ばくということを考えると、癌の多発や米兵の「湾岸戦争症候群」も説明がつきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/湾岸戦争症候群


まだまだ調査そのものが行われていないか、あるいは政治的に情報が公開されないせいか、データが少なくはっきりとした因果関係は言えないようですが、劣化ウラン弾はイラクで癌や奇形児が増えている有力な容疑者だと思われます。