「気づきとヨガの素敵な関係」という特集を組んでいるヨガ雑誌を見つけて、思わず購入。(笑)
Yogini(ヨギーニ) Vol. 24 えい出版社
特集記事中の、ヨーガと気づきの関係について書いた文章より。
「ヨーガと気づきにはとても大きな関係があります。例えば『ヨーガ・スートラ』。
これはインドの文献では、グルシャナ(=認知)、あるいは大別すれば『バガヴァツド・ギ一夕ー』と同じスムルティ文献に入ります。
スムルティとは記憶、気づき、知ったこと、という意味。ちなみにヴューダの哲学書や『ウパニシャッド』は人が創作したものではなくシュルティ=聞いたもの。つまり『ヨーガ・スートラ』は〝気づきの書〟なのです。八支則は、気づきの体験により書かれた、大いなる気づきへと導く地図ではないでしょうか。
『ヨーガ・スートラ』に書かれているヨーガの最高の気づきは、「私は、いつも変化する肉体や心(思いや自我)など(総合してプラクリティ)と、不変の意識(プルシャ=純粋精神)から成る。そして、私はプルシャであり、プラクリティと異なる」ということ。
ヨーガはそもそも結びつけるという意味ですが、ヨーガを深めていくと、プルシャとプラクリティとは紆びついていないということを知るわけです。
人間は肉体、五感、思考、感情、自我の五つの層から構成されていますが、ヨーガによってそれぞれの層、段階で、これは「自分」ではないと気づいていくと、最終的に識別力(ヴィヴエーカ)により、自分は〝不変の意識(プルシャ)″だと気づきます。
それが解脱(カイヴアルヤ) です。解脱とは悟った状態で、ヨーガのゴールとされます。」
なんか、どっかで聞いたような話。(笑)
「人間は肉体、五感、思考、感情、自我の五つの層から構成され」 --> これは五蘊。
「ヨーガによってそれぞれの層、段階で、これは「自分」ではない気づいていく」 --> 五蘊非我。
「識別力(ヴィヴエーカ)により、自分は〝不変の意識(プルシャ)″だと気づきます。」 --> 智慧の力で自分は〝不変の意識(プルシャ)″に気づくわけですね。ここは無我ではない。
なんだかんだいって、ヨーガも仏教もおんなじインド思想の中のお仲間ということがわかります。